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設計からお見積りまで 業者一覧 

よく「設計からお見積もりまで」という言葉を耳にする。
住宅に限らず結構いろんなところで。建設業だけじゃないとも思う。

「設計からお見積もりまで」

この一言・・・ここまで大変だとは思わなかった。
とにかく一段落したので、今後、これまでの過程を随時更新する予定です。
今回は「お見積もり」を依頼する業者について。

まず簡単な流れの説明・・・
はじめに、こちらで設計案をまとめます(設計者がいればその人がまとめる)。その提案を各業者に説明し、「この案いくらで出来ますか。」と質問します。各業者には各々の領分があります。下にずらずらと書いているのがそれ。
すると、だいたい一週間以内に「~円で出来ます。」という返事が帰って来ます。その合計金額が予算をオーバーするなら設計変更。再度減額案の見積りを依頼します(ピンとキリ2通りの案を依頼したりもします)。その繰り返し。

そして設計案が実際の形になるまで、次のような業者が絡みます。
いまのところ15から16くらい(←改めて数を見ると若干ひきます)
この人達を相手に、いろいろと質問を飛ばしまくって、聞いて、考えて、、、を繰り返す。

ここでちょっとメモがてら、今回の出演者の紹介。

◇大工
これは我々の仕事。「吉川の鯰」が担当。主に木工事を行います。人数が必要だと思われるので応援を呼ぶことになりそう。
◇設備屋(ガス含む)
以前から一緒に仕事をしている「Eエンジニアリング」。給排水、エアコン、換気関係の工事を担当し、その他ガス屋を外注するので、そこまでを任せています。
◇電気屋
「S電気」。都内でも西側のときは大抵頼んでいます。電気配線工事と器具の取り付けを担当。照明器具は我々が発注することにしました。
◇塗装屋
「S塗装」。既存2階建のALCパネルの吹き付けが一番大きな仕事。そのほか塀などもあります。
◇クロス屋
「F表具店」。以前ブログにも登場した「S木材」の紹介で、今回が初めての依頼。内装を担当。ご近所さんです。
◇左官屋
「H左官」。不忍通り沿いの会社(ご近所)。今回は出番が少ないかもしれません。
◇建具屋
「T建具」。千駄木にある建具屋さん(ご近所)。明日には連絡せねば。
◇板金屋
「I板金」。既存の屋根の葺き替え、新築部分の屋根を担当。
◇防水屋
「S防水」。既存2階建の防水を担当。防水関係、結構ガタが来ていたのでこれで一安心。
◇建材関係
「A」。ユニットバス、水周り、サッシ、エアコン、照明器具などを安く入れてくれるので、頼んでいます。ネットなど自分たちで仕入れた方が安かったりもしますが。その辺りは手間との兼ね合いで調整。また、下請けで取り付け業者を送り出してくれます。次に示すガラス(サッシ)屋さんとALC専門業者はこの「A」の紹介。
◇ガラス屋
「Hガラス」。今回ALCパネルのサッシ取り換えのために呼んでもらいました。初顔合わせ。
◇ALC専門業者
同上。
◇解体屋
既存建物の解体を担当。今回3社を呼んでいて、各々の見積り比較します。
◇基礎屋
「D建設」新築の基礎、及び駐車場を担当。あと既存2階建ての塗装・防水・板金工事用に、足場の設置も頼みます。
◇植木屋
「U造園」。外構の庭を担当。この植木屋さん、まず衣装がカッコいい。
◇金属関係2社
「A工業」「M製作所」
各々ありますが、金属屋根、屋根の樋、デッキの手すりなどなど。
◇畳屋
「K商店」。畳の張り替えです。この畳屋さんも近所にあります(上野桜木)。

といった具合。
こうして書いているうちにも、最初の宣言(15,16)から1,2社増えてます。
こんなの本当にまとまるのか(なにせ初めてなのでよく分かりません)。
この1つの現場に、いったい何人の人間が関わっているのかと思うと、正直気分悪くなります。今回ぜひ数えてみたいと思います。親方だけでなく下職・弟子関係全てあわせて。

明日以降は、業者ごとの作業内容と打ち合わせの結果など(設計を含め)をアップします。今回の現場記録にもなるので。

そう考えると、これ結構貴重な資料なんじゃないかと思います。
たとえば、現場の進行にフォーカスする文章(雑誌・ブログなど)はよくあるけれど(前回のS邸などもそう)、設計と業者打ち合わせ、見積りなんかをテーマにまとめるのは、なかなか珍しいんじゃないかと・・・一見の価値あり。
もちろん具体的な金額は言いませんが(「高かっ」とかは言います)。

そういえばまだ隠れていました。
施工とは関係ありませんが設計関係で。
構造設計屋さんと建築確認申請の業者(今回は民間)。

いやいや。まっだまっだ隠れているかも。

いるなら出てこーい。

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コラムの開始 講評会を踏まえてさらに思うこと 

最近になって、建築全般に対して少しずつ興味が沸いてきた。この際、今までいろいろと頭の片隅にあったものを一気に放出することにする。(おそらくこんなことを続けていくと、その度にかなり分裂した意見を書くことになると思いますが、それは1つの目的でもあります。あくまでメモ書きということで。)
そして今回が記念すべき第一回目。

前回の続き・・・。「内発ー外発」関係について。

■内発的動機と外発的抑制■
内発的動機と外発的抑制の対立やら共存など。こういった論法はよく使われている。技術的問題(外発的)と美的問題(主に内発的、作家の美意識)とか、、、機能(使うこと)と美(観賞すること)・・。二つに分割すると分かりやすくなるからだと思う。

ちょっとここで、ある設計者のおこなう住宅の設計を例として「内発ー外発」関係を分かりやすくまとめてみる。
まず一人の施主がいる。設計者はその施主からお金をもらって設計をおこなう。施主の要望を聞き出し、設計案に盛り込む。つぎに設計案を法律に引き合わせ、軌道修正する。見積りをおこない予算と照らし合わせ、設計を変更する。施工が始まり、技術的問題から再度変更。。。
さて、このようなごく一般的な境遇、じつは上記の「内発ー外発」関係に当てはめることができる、とても簡単に。
内発的動機:設計者自信のやりたいこと。意志、理想。
外発的抑制:施主の意見(機能的、観賞的理由など)、予算、法律、技術
とても分かりやすい。

■妥当と妥協■(この二つの似て非なる単語の組み合わせは、大学時代の先生の言葉を援用したものです。)
しかし、普段ものを作るとき(家具の製作、カイトの制作、靴の修理でもいい)、そんなこと(上記の要素)を内発とか外発とか理由づけて考えているだろうか。いやいや、各々は単なる与件でしかない。べつに分類する意味もない。ではなぜそのような分類をしたがるのか。ここから以下は飛躍。
その理由のひとつとして「いつでも言いわけを用意しておきたい」があげられると思う。さきの例をみても分かるように、ものの創作行為を「内発ー外発」関係として捉えると、いくつかの修正行為が、実際おのおの妥協点として存在していることが分かる。
施主の要望を聞かねばならないから・・・、予算がないから・・・、法律に違反するから・・・、技術的に困難だから・・・、今回は妥協せねば・・・・と。これは現在進行している建設行為の9割以上だと思う。
しかし一方で上記の要素がうまく作用することもある。様々な要素のおかげで、建築が良い方向に移行したりすると、主体全体(設計者・施主・技術者など建設行為全体)が納得する。これは妥協とは言わない。ある妥当点を見出したといえる。
さてこの状況、本当に「内発ー外発」関係(対立にせよ共存にせよ)といえるか。うーん、違いそうな気がする。たぶんベクトルの方向が違う。もちろん設計者(あるいは施主)の一案が発端とはなるが、全体の総意が妥当性を目指すのだから。それは家具やカイトを作ったりするときと似ている。与件に内(作用)も外(反作用)もない状態。

■内発ー外発(さらに飛躍して)■
この感覚は、設計者=作家という問題と関わっていると思うけど、難しいのでそのうち思いついたら書きます。
さて、先にも述べたように妥協と言い訳はセットであり、妥協するときにはかならず言い訳が用意されている。「なぜなら・・・。」と。これは前述の講評会でも同じ。「私はこのように設計しました。なぜなら・・・」。相手を説得せねばならないので当然といえば当然である。
そして実はこの言い方、世間の多くの建築家においても同様。自身の設計した建物を発表・説明するとき(とくにメディアに向けて)によく使う方法である。その場合「はい。そうですね。」って言いかえせば、きっと安心するのだと思う。
さて話しもどって。以上の感じを踏まえると「内発ー外発」というのは、建築家による、単純な論法(理由付け)なのだと思う。そして、その論法は教育(たとえば今回の講評会)を通じて学生にも伝えられる。とにかく言い訳を考えるようになる。(←学生時代の設計課題においては、学生の提出した設計案に対してその理由が問われます。なぜか提出した後の質問攻め、未だに不思議です。)

以上のようにだらだらと流してきました。しかし前述のように、現実の設計行為はこういう場合(内ー外の対立)が多いことも確か(というか勝手にそういう考え方になってしまう。)。だから今のところは「この論法はかなり怪しいなあ」という感覚を常に持ち続ければいいと思う。
というわけで最後↓

■ゼロ円建築■
そうか。内ー外なんてのは詭弁にすぎないなあ。とおもったのはこんなサイトを覗いていたせいもある、、、 「究極のライト・アーキテクチュアはゼロ円建築」 石山修武
「ゼロ円で建築を作る。」こんなに面白い響きは他にないと思う。考えるだけでわくわくするし、「予算がないから今回は・・・」という妥協の言い訳もどこへやら。この感じ、ほんとうに共感(ただしこのコンセプトを掲げ、今すぐに実行に移そうとすると、またもや内ー外の関係(人件費がかかる等の外発的抑制)に陥り、自己矛盾に至ります。)。なので今回はこの言葉だけを心に留めておいて。
まあ何十年か経てば本当に出来そうな気がしなくもないし、まずそれについて考えることが楽しそう。たとえば路上生活者の人の住宅(小屋)なんて、ほぼゼロ円だと思うし。専門的知識と予算の組み方次第では、ある意味で可能かもしれない。
そして大事なこと→そんなものを作ることに、さして理由はありません。「予算がないから、なんとか0円で作ったんですよ。どうですかねえ。」(理由付け)なんて人に言ったりしません。「0円で作りましたよ。ついに。げらげらげら。」と胸を張って言います。

東大・東京芸大・東工大 三大学合同の卒業設計講評会へ 

もう社会人になって一年が経とうとしていたのに、大学の卒業設計の講評会へ行った。東京大学、東京藝術大学、東京工業大学のそれぞれの秀作がそろう合同の講評会。日本の大学の建築学科、トップの集いみたいなもので、合計12案が出展。(建築学科に詳しくない人へ:建築学科では、学生が設計した案を先生達(実際の建築家含む)に講評してもらうことがしばしばあります。実は設計案よりも、そこでのやり取りが結構面白かったりします。)
印象に残ったことをみっつ。メモとして。

■模型の質の高さ■
講評会の最後に、近くで模型を拝見し、そのすさまじさにただ驚き。各々の計画案に対する印象はほとんどなくなってしまった。
とにかく模型の精度が異様だ。東京の大学では一般的なのだろうか。その大きさや細かさにも驚いたけれど(細かさトップは小学校の案)、精度が抜群である。とくに異形の集合住宅の案(東工大?ほとんど注目されていなかった案だった)。ずば抜けていた。壁をトメで収めて、まったくの隙間がなかった。その精度のディテールが延々と繰り返し。繰り返し。。。
作らされた後輩たち(卒業設計のような大きな計画の場合、基本的に模型製作は後輩に任せます。)は、おそらく良い意味でキチガイなのだと思う。自分の案でもないのに。手伝いの鏡です。
あるいは。。。この案(他の11案も含め)のまとめ役(設計者本人?)は、近い将来一流の施工者になるだろう(自分も三年前に卒業設計を終えて、模型の上手さや質の高さは、ほとんどがその指示系統に依存すると痛感したのでした)。たぶんならないが、本当になるとしたら面白そうだ。

■講評陣について(有名建築家が数名、哲学者一名)■
建築家鈴木了二がステージ壇上からジャンプして飛び降りたときは、観客一同目を疑ったんじゃないだろうか。講評会のなかで一番年長、しかし最も若くいきいきとした発言の持ち主。会場全体が魅了されていたのだと思う。ちなみに建築の分野外から東浩紀(哲学者?)という人が来ていて、際どい発言を連発(詳細は下記に)。
じゃあ他の講評者はどうか。発表した学生からすれば「大学の講評会でも同じこと言われたな。」という印象だったと思う。とにかく批判が多かった。おそらく学生自身は建築家に「私ならこうするよ。」と言ってほしかったはず(過去の自分の経験上)。案を批判されるのは大学各々の講評会で懲り懲りなんですよ。

■最後に。社会人として行ってみて■
さて、つづき。
じゃあ東浩紀が何を言ったのか。今思い出すと次の言葉がとても新鮮だった。「この案ですが。建築学科の中では通呈しているのかどうか知らないけれど・・・。いいんでしょうか。」(確かこんな内容だった)
さて「この案」とはなにか。この場合それは、建築物として構造的には成立しないもの・事業計画がないもの(その計画に対して誰が金を払うのかなど)・居住環境が悪質なもの・・・のことを指している。基本的に、設計者のコンセプトが極端すぎると、こういう案に陥ることが多い。
経験からいえば、学生はこういうとき「そんなこと知るか。」「なにをまじめなこと言ってんの。このおっさん。」などと考える。しかし建築学科に関わりのない人(ここまでブログを読んできたとすれば・・・)にとっては「そんなものなのか。建築学科って」「実際に建たないからって。それでいいのか?」という印象を受けるはず。実際私自身も今回そう思った。
おそらくあの講評会における東浩紀の言葉(「建築学科では通呈している」裏を返せば「それは一般的には通用しないのでは。」)は、現在の建築学科教育(設計・計画・意匠などの中で特にあやふやした分野。実質的研究は含まない。)に対するひとつの正当な批評だったのだと思う。

結局、実際の講評会のまとめもそんな内容だった。
設計者(学生)の自己にある内発的動機(製作意欲・実際には成立し得ない理想)と、構造的(敷地形状や実体的構造など)あるいは社会的(法律・用途など)な制度や制限からくる外発的抑制との関係(対立・共存)を、どやって上手く処理するのか、あるいはどちら側から設計行為をするのか、みたいな話。←かなり怪しいまとめだと思う。昔から(近代でも)言われてきたことで分かりやすいけど。本当にそうだろうか。
次回コラムへ続く。

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